パンゲ編




 火の章 (1)



 はじめは、好奇心だった。
 曼聖羅の外れ、−彼等にとって世界の果てとも言うべき場所ー、漆黒の空、天地を別ける水平線、見渡す限り一面の蓮の花、蓮池のほとり、無音。
 ペガ・アリババは、そこに一人でやって来て、絶えぬ水の流れの中に、興味深いひとすじの流れを見つけたのだ。
 それは、この世界の深淵。
 彼は少しだけ考えた後、いたずらっぽそうに目を細めて、その流れに手を伸ばした。
 水面に触れた指先から広がる、円状の波紋。
 宙に浮く体を蓮池に沈める。淡い紅色をした蓮の花びらの間を通り過ぎ、潜る、深く深く。絡み合う蓮の根をもかいくぐり、この池に底はない。
 聖なる水が彼を包み込む。
 奥深くへ・・・。

 『何も無い世界』に漂う曼聖羅は、巨大な『水玉』の上に浮かぶ世界である。異聖神の力を核として、引き寄せられた水玉は、大地という器を持たぬ故に、池のようでもあり、川のようでもあり、海のようでもある。聖なる水は、水玉から曼聖羅の地表に湧き出し、かりそめの世界を潤す。そして、咲き乱れる蓮の花が、曼聖羅を護るように覆いつくすのだ。その内部には、水玉に浸かる曼聖羅の中枢、黒根茎があった。それは決して大地に抱かれることのない曼聖羅の根である。
 聖なる水はどこからともなく流れ込み、どこへともなく流れ去る。水は留まることなく、流れ続ける。というのも、流れぬ水は永遠であり、死であるから。
 流れ続ける水の流れの中に、アリババは身を置く。

 水と、彼の体に付着していたわずかな空気が細かい泡となったものだけがある所で、上も下かも分からぬような所で、最早水の中とも思えぬ、時空の狭間のような所でも、彼は、自分が見つけた、その流れをはっきり感じ取ることができていた。
 これは、過去から今へと続く、時の流れである。
 水が上から下へと流れていくように、時も過去から今へと、そして未来へと流れていく。
 一方、今から過去へと向かうのならば。この流れをさかのぼっていけば良いのだ。
 意識だけが時の流れを逆流していく。
 ペガ・アリババは、それを感じた。自分の体は曼聖羅の蓮池の中に残ったままで、魂だけが時を駆ける。
 曼聖羅が存在する未層域とも違う。ここは時空の狭間なのかもしれない。

 黒とも白とも分からぬ世界で、アリババは過去の光景を見た。
 目で見えるのではなく、意識でヴィジョンを感じていた。断片的に、ちらりちらりと垣間見える、通り過ぎていく風景。
 青空のもと、平和を謳う炎が、塔の頂上で明々と燃えていた。
 荒れ果てた荒野で、傷ついた天使の肩を支える悪魔の姿があった。
 悪魔の躯を踏みつけて、戦いの渦中に飛び込んでいこうとする天使がいた。
 消滅した誰かを想い泣く、女の天使がいた。
 暗黒の世界に光輝いていた、七色の虹・・・。
 ちくりと胸が痛み、彼は意識を閉じて、さらに奥深くを目指した。

 彼が知りたかった過去は、異聖の起源だった。
 次界第3エリア『無次元』への侵略以降、次界は第二の曼聖羅として常に標的である。今、発展途上である次界に対し、曼聖羅が傍観を続けるのは、未だ次界が成熟していないから。次界が、曼聖羅の命に繁栄をもたらすべく肥沃な世界に成った暁に、来る聖事の時が訪れるだろう。
 次界に再び戦いの血が流れるのだ。
(『俺達』の次界に・・・・・・)
 しかし、アリババは異聖に同情もする。
 曼聖羅の住人達と、天聖界や天魔界、次界の住人達と何が異なるのか。
 彼はこう思いもする。
 曼聖羅の流浪の運命に、自分の運命を重ねているのかもしれないな・・・。
 彼は、今の自分の感情が、メディアによる洗礼の結果ではなく、己の心から湧き上がる感情であると信じていた。異聖神は自分に曼聖羅の体と名を与えたが、自分の心と思い出を消し去ることはしなかったのだ。
 自分には異聖が絶対的な悪とは思えない。
 彼は曼聖羅で問うても得られなかった答えを探していた。
『何故、異聖神メディアは、異聖の神として源層界から追放されたのか?』

 ふとアリババは、オリンとの約束を思い出した。思わぬ場所を発見した興奮からすっかり忘れていたのだが。それは実に他愛もない約束だったのだけれども、大切な姫様との約束を、彼は反故にはしたくはない。
 彼が時の流れに逆らうのを止めると、自然と、彼の意識は過去から未来へと流れだした。元の時へと戻っていく。
 少しづつ潜っていけばいい、とアリババは思った。オリン様は未だ御自分の使命に気付かれていらっしゃらないし、ロココ様とマリア様の御子息も、ひ弱な次界と同様、未成長の段階である。次界と曼聖羅が会する時は、当分、先。
 時間はたっぷりある・・・。

 アリババは、この流れの先に、ー過去から今に流れる『時』の源流の側にあるー、大きな扉の存在に気付いていた。何人たりともその侵入を許しはしない、強大な力と意志をもった扉である。
 しかし、アリババは確信していた。
(今の自分になら、あの扉を開けることができる・・・)
 時空の扉を。
 禁じられた扉。
 時の流れをさかのぼる。
 昔々。次界創造、次界探索、聖魔分裂の時代さえ越え、古代源層の時代、遥かに越え、その先にあるものは、

 ・・・・・・・・ひかり?




 
 『・・・ミテハナラヌ・・・』
 
 『・・・フレテハナラヌ・・・』



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