パンゲ編




 火の章 (6)


 水の大層が主、ハムラビ・シーゲルは不機嫌だった。
 一つは一本釣。喉元に突きつけられた冷たき氷の刃。
 朝。未だ、その感触が残っているようだ。
 凍てつく冬の寒空に、身を凍えさす北風が吹く。家屋のひさしに伸びる氷柱は、恐ろしく鋭い切っ先を持って、その下の標的に狙いを定めている。
 そのように。
 一本釣の強い憎悪の念が、深夜、寝床に収まっていたハムラビを目覚めさせたのだ。水の流れを渡り、これまでに無かった激しさを持って。お互い憎みあっているというのに、同じ属性というだけで、どこかで繋がっているのは因果なものだ。パンゲアクターの一人を片付けることによって、一本釣が自分に向ける殺意は、少なからず予想はしていたものの、ハムラビにとって気持ちの良いものではない。
 けれども、さらに彼を鬱とさせるものは、風の大層が主、シス・ウィンディのこと。
(よくもまあ、アリババは余計なことをしてくれたものだ)
 風の大層の守護者たるヤマトは当然であるが、一本釣やダンジャックまでもが、風の大層にかくまわれていることなど、ハムラビとて、うすうす感づいていたことだ。
 しかし、ハムラビは、それをはっきりとさせてこなかっただけ。
 けれど、アリババが朝食を終えた彼にもたらしてきた報告。金の大層から傷を負ったヤマトが逃げ込んだ先。アリババの配下であるガーメが彼等の後をつけ目撃した事実。

『移動する風穴』
 風の大層の入り口はそう呼ばれていた。
 風の大層の周囲は暴風域に覆われており、雷雨の混じる嵐の雲が、風の大層を守っている。風の大層に入るためには、その厚い嵐の雲にぽっかりと開かれた、雲のトンネルを通るしかない。
 その風穴は、特定の場所を持たず、いつ何処に発生するかは分からない。
 水の大層の使者が風の大層に出向いていた頃は、シスが伝えてきた所定の時刻、所定の場所で風穴が開かれるのを待っていた。雲に開く風穴は、単に自然発生的に生じるものかもしれないし、或いは、風の大層の主の意思によって開けられているのかもしれない。
 また、この『嵐の空』の守りを避けるため、地続きに風の大層に入り込もうとしても不可能である。一つの大陸であったパンゲラクシーは、ある時、六つの大陸に分断された。その際発生した『地の裂け目』は、非常に深く幅広く、対岸は遠くの霞となって見えぬほどである。もし、地の岸辺から地上と平行するように対岸目指して飛んでも、天まで高く聳え立つ絶壁に行き着く。頂上は無論、雲の中に隠されている。
 風の大層は大した軍事力を持たない大層である。けれど、こうした自然の防壁が、他大層のいかなる侵略をも拒む。六大層中最も落としがたい、風の大層は守りの大層である。

 さて。ヤマトを迎え入れた風の大層の入り口に、ガーメはさらに身を潜めた。予め下されていたアリババの指示のもと。かなり時間が下ってから待ち人が現れる。一本釣とダンジャック。先導する風の大層の使者と共に、彼等は躊躇することなく、風穴に突入し中に消えた。
 こうして水の大層は、仇敵であるヤマトや一本釣、ダンジャックを、風の大層が保護している証拠を遂に掴んだのである。
 これまで風の大層は、『水の大層に服従せよ』との再三の要求に対し、返事を返すことがなかった。恭順の意も示さず、かといって、抵抗の意も示さない。いつもの彼女の麗しきポーカーフェイスと同様に、無反応。しかし。
 これで、風の大層を討伐する正当な理由ができてしまったということだ。
 そして、それは彼が望むことでは決してなかったのに。
 
(なんとも、美しい朝だ・・・)
 ハムラビはテラスでまどろびながら、白く輝ける自分の海を見渡す。ふうと洩らす息は、なんとも遣る瀬無い溜息の何物でもない。
「ハムラビ様。皆様、お揃いになられました」
 背後で、水の大層の天使がハムラビに伝えた。
「ああ、今、行く」
 と、ハムラビは徐に立ち上がる。
 さあ、気持ちを切り替えろ。
 アリババは我の下僕として完全に復活した。駒は全て揃ったのだ。後は。
 自分に与えられた役割を完璧に演じるまでよ・・・。
 彼は、異聖矢メディサが与えし、正統な曼聖羅の後継者たる御印を取り上げる。

 水の大層の玉座の間は宮殿の中心部にある。
 高い吹き抜けになっている玉座の間は、広々として開放感があり、純白の大理石で築かれている。太い円柱が支える天井の一部にはガラスがはめられているので、内部は清らかに明るい。
 謁見者が通される大きな扉から玉座へと続く一本道の両際には、人がまたいで通れるほどの細い幅で、水が流されている。
 そして数段高くなった所にある、ハムラビの玉座。その背後には滝が流れていて、横に広がった滝のカーテンを通して透けて見えるのは、異聖神メディアを祭る神殿である。滝を受け止める水溜めには、曼聖羅のシンボルである蓮の花が咲き乱れていた。
 横からハムラビが現れて、玉座の前に立った。後に続くのは、彼の養父であるシーゲルタートル。手足がある魚の姿をした彼は、ハムラビの横に立ち、異聖の継承者への礼を示す。そして、ハムラビが玉座に腰を下ろした。眼下の者どもを見下ろす。

 ハムラビの右手には土の大層マッドーチェの面々が連なる。
 上座にアンセス。彼は土の大層の主にして、豊かな青い口髭をたくわえ、隆起した筋骨逞しき『土の巨人』の異名を持つ。隣には息子のフィアン。こちらは、羽織をさらりと着流し、涼やかな表情を浮かべている。続いて、土層大鬼族の選子たる三人が。一人は土のサンドラ。彼女は鎧で身を隠し、緑青色の兜の下に赤い髪がのぞく。そして、土偶のマスクを被る土のクレイトと、丸い赤鼻の狡猾なる道化師、土のロックサンヌ。また、土の大層を守る大鬼族の部下の悪魔が三人ほど、下座で控えていた。
 左手に立ち並ぶのは、水の大層シーゲルの臣下。
 水の大層を治める父子に長きに渡り忠誠を尽くす、忠実なる二人の部下は、水のウォープレと水のバブロ。ウォープレは、潜水夫のような頭全体を覆うメットを今は小脇に抱えて、バブロは蒼白の皮膚に赤い目、赤い角の凶悪面ではあるが、忠義の心に疑いの余地はない。彼等は怪水族と呼ばれ、他に、水の大層の臣下が天使、悪魔入り乱れて並んでいた。
 そして、その上座には、金の大層が主、ゴーディ・メタメンデル。


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